2019年5月3日金曜日

被害者と加害者に対する姿勢

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令和初仕事はベルリンで。


ユダヤ博物館(写真は違う場所)へ行って、いろんな意味で胸がいっぱいになってる。自分の中だけに留めておきたくなくて長い時間かけて書いて言葉にしてみたけどなんか違う。


ダイレクトな言葉は時に不十分だったり鋭すぎたりで、そういう時に人は歌や踊りや絵やと、違った形で表現するんだよね。


でも、この気持ちは具体的にどう表現したら良いのかよくわからず、誰にも話さず一旦保留。みたいなことが今日に限らず最近ずっと続いてる。いつか納得のいく形で外側に出せたらなぁと思う。


でもいま表明できる範囲内でどうしてもいま書いておきたいのは、


未だ色んな事件や問題が起き続けてる世の中に対していつも思うこと。


被害者ばかりがクローズアップされ加害者側はいつまでも叩かれ続ける(特に日本)世の中だけど、それは理に適ってるようで博愛ではないなぁってこと。


被害者側のことはもちろん!!だけど、加害者側のリアルも深く想像して、寄り添える部分には寄り添いたい。


加害者は自分のした悪の重みを自覚して時には法から罰を受けて、悔い改めるべきだとは思うけど、真の愛は罪を憎んで人を憎まずなのだと。


自分自身や身近な人が被害者であったらそれは簡単なことではないし、罪に対して怒りを持つのは当たり前だというのは前提として。


誰だって生まれてこのかた、少なからずは人のこと傷付けたり罪犯したりしながら生きてきてて、潔白な人なんて絶っっ対に居なくて、だから罪犯した人を指差して石を投げられる立場の人なんか本当はひとりも居ない。石を投げ続ける、それも罪だ。


何故犯罪者が犯罪者になってしまったのか、加担していた人々や環境もあったんじゃないのか、それらは既存の社会のシステムからの影響ではなかったのか、それはこの先どうしたら防いでいけるのか。


また犯罪者が更生するためには社会や周りの人たちの協力も必要なはず。


すでにそういう考えで動いている人たちも世界中には沢山いるけど、割合的にはすごく少ないと思う。


人と人とがいつも監視し合って揚げ足とって憎み合って文句言い続けてたらそれはきっと良い方向には進まないよ。


自分の行動やジャッジが絶対確かなんてのも傲慢な考えで、自分では気付いていない自分の足りてなさだって実は周りが忍耐を持って赦してくれてるだけかもしれない。


これを書いてるわたしにも、矛盾だったり突っ込みどころはあると思う。また全てが完璧な見解だと思って書いてるわけでもない。


人間である限りはみんな、矛盾はあるし意見だって変わっていくと思う。(全く変わらないのなら成長がないとも言える。ただ信念自体がコロコロと変わってたら信用を無くすとは思うけど。) だからこそある程度はお互い様なんだという目で人を見る謙りも身に付けたい。


それにわかりやすい大きな犯罪だけが犯罪じゃない。わかりにくい心の根にある小さな悪、自分の中にだってそれがあるときがないか、よく考えたい。自分のしたい批判が愛からなのか、自我からなのかも。


あなたを迫害する者のためにために祈りなさいって聖書に書いてあるんだけど、これこそ愛だと思う。


悪くなってしまってる人が更生し、また幸せな人生を歩んでいくことを願い祈ること。それを息を吐くようにできる人になりたい。


でも、正当防衛はその名の通り正当だと思う。赦す≠許す(Forgive ≠ Allow)で、タイムリーに自分を傷付ける人や不当に扱うような人をそのまま"許"しておく必要はない。


また、社会が同じことを二度と繰り返さないために声をあげることは、その動機目的ゆえに必要な時があるとも思う。


全く反省がないなら自覚してもらうように働く必要が出てくる時もあるし(放置で被害者続出するかもしれない)。ただその自覚させることが攻撃返し!みたいなやり方にはならないようにしたい。


そして離れられるなら離れて、でも"赦"して、幸せを願いたいなぁって思う。


ホロコースト被害者と加害者の孫が恋愛をし幸せになる映画があることをさっき知った。

受講してたイノベーションスクールの広告に〜!@ウィーン

 昨年ウィーンで実際に受講していたイノベーションスクールの広告モデルをしました。 ドライブ中あちこちに見かける・・・笑 パンフレットとウェブサイト上にもちゃっかりと。