2013年5月28日火曜日

展望


肯定的な人間で在りたい。謙った心を持った人間で在りたい。器の大きな人間になりたい。

世界を舞台にして表現者として生きていきたい。
愛と希望と平安への道を照らす光のような役割をしたい。

名誉やお金を得ても私利私欲を満たすことを目的として使うのではなく
自分以外の人や社会の益として使うからわたしの幸せにもなるという循環を作っていきたい。

きっと多くの人が嘲笑うだろう
きっと多くの人が根も葉も無い事を言うだろう
きっと多くの人がわたしの足を引っ張ろうとするだろう

晒しものにされるってのはそういうことだ

沢山のリスクを背負ってもいい、もう色んな事見て見ぬ振りなんてゼッタイしたくないんだ
そして絶対にやり遂げる

だから本当にどうでもいいんだ 誰かの噂話、悪口、その場しのぎのような色恋、見栄張り合い、自尊心の満たし合い、嫉妬 
興味が無い だって心が曇る。後味悪い。自分や現実を真っ当に見れていない、又は自分という人間が愚かだという証をしているようなもの。ただそれだけ。これほど自分を浪費することってあるのかと思う。

よく言われる「なんでそんなに楽しそうなの」

嫌なことはいくらでもある、頭にくるような事も悲しい事も傷付く事も。だから実際は勿論怒るし悲しむし傷付くしそれは間違ってもなければおかしな感情でもない、押し殺さないほうがいいときもある。でもあんまり負のエネルギーを使っていいことって少な過ぎるから、それを引きずらず感性を研ぎすませて楽しいことを見つけることの方が多い。

彼氏というのもピッタリな人が居たら幸せだなといつも思うし、恋をしてるときもあるけど 先が見える、一生一緒に居たいと思える人(付き合っていくうちにわかるものでもあるけど)がいいし、セックスも結婚するまでする気がない。愛は感情だけじゃなく、理性でもあると思ってるから 両方が心から良しとして結婚して、愛のあるセックスをして子供が欲しい。っていうのがわたしの考え方だから。これはもう時代がとかお固いとかなんとか言われても変えるつもりのないこと。

そしてわたしはまだ洗礼は受けてないけど、クリスチャンであるから神から祝福された人生を送りたいから。わたしの考えのベースは聖書に基づく。日本では稀だし、宗教概念というもの自体が浸透していない部分やそれに近付いてはいけないと思う価値観(メディア等の情報コントロールもろもろによってもね)があるけど、わたしはこれは誰かに強制されたわけでは無いし親戚にもクリスチャンは居ないし、強いて言うのならば幼稚園がキリスト教の幼稚園だったというのは大きいかもしれない、だけどわたし自身がただひたすら何年間もあらゆる哲学、思想、色んな宗教、スピリチュアル、占いその他もろもろを独自に学んで判断した事。

前の日記に書いたようにわたしは昔から目に見えないものがあることを身を以て体験して確信しながら生きてきたし、だからそういうことに興味を持つのは当然なことで、だけどどの教えも100パーセント納得がいかなかった。真理自体が無いという論もあるけどわたしの場合は真理はひとつということだけは譲れない想いがあったから、追求したかった。

だから勿論 無神論者の記述や哲学的考え方科学的考え方も沢山読んだり調べた上でよくよく考えて世界を自分を見つめて
その結果自分が行き着いて本当に唯一納得出来たのが聖書で信じられたのがイエスキリストだった。

留学も、実を言うと一番楽しみにしていたのはキリスト教文化が根付いている場所、人と共に生活することだった。またクリスチャンに留まらず、他の宗教や文化背景を持った人たちとも接して語り合いたかったから。実際にそれが出来た素晴らしい期間だった。

それから面白いなと思うのは、わたしの好きな人や好きな作品を作った人はクリスチャンだったり聖書を学んできた人が多いということ。(For ex.やなせたかし、サンテグジュペリ、ホイットニーヒューストン等)

逆に、自分の信仰故に興味を持ち始めたのが三浦綾子さん。

髪をバッサリ切って黒くしたのにも理由がある。洋服3年間学んで、学べば学ぶ程、色んなファッションを試せば試す程
奥深さや楽しさを学びながらも相反する気持ちが芽生えて「どーでもいいよそんなこと」と思う自分も出て来た。
お洒落は大好きだしショッピングは至福だけど、それに比例して

心のどこかで、ファッションが無くなったとき、どうなるの?って、怖さがあったんだよ。若さだっていつかは必ず衰える。どんどん変わっていけばいいけど、変わらないわたしって一体何なの、何が残るの自分にって、そっちの方が全然重要だと思った。

髪型変える度洋服変える度わたしの見た目の印象は驚く程変わって、人々の反応も驚く程変わる。お洒落してる時は優遇されて してないときは無視されたり、ブロンドヘアでちょっと派手な化粧と格好してた時に話しかけたら パン屋のお姉さん明らかに超怯えちゃってたり。

だから「ゆりのと言えば○○」みたいなこと言われるたびに、「じゃあそうじゃなくなったら?」って、思ってた、相手はそこまで深い意味持って言ってないと解っていても。

だってわたしのファッションや好み、性格だってある程度は確実に変わっていく。だからその「ゆりのと言えば」ってなんなの?って思うんだよ、そんなのあまりに不安定過ぎる個性だな!と。

極端に言えば例えばもしわたしが全身大火傷して容姿が変わったら?例えばもし声を失って喋る事が出来なくなったら?例えばもし腕を無くして何も作れなくなったら?
勿論そうなったときにしかわからない だけど

例えば恋人が居たとしてその人はそういうことがあってもわたしのことをずっとアイシテくれるのか 本当に"愛してる"のならきっと愛し続けてくれるのだろう "愛してる”ってそういうことだと思ってる

例えば表現する手段を何か無くしたら他に何か手段を見つけて自己表現をするんだろうから
実際のところ"何で何をするか"なんていうのは手段でしかなくて、いやもちろんそのチョイスだって個性だけど、もっと奥底にある、何で何をしても”ゆりの”である"魂"が最も重要なわけで。

だからいつも思う。表現する”手段”という意味で技術的なものや表面的なものを磨いていくのもとても大事なことだけれど、もっと奥の深い深い"魂"こそ、常に磨きたい、進化させたい。探究したい(?)と。

話は戻り、ファッションというのは本当に物凄い表現手段だと思うから注目しているし勉強しててよかったしこれからも何かしらで携わって行きたいけど
あのときはそれで誤摩化せてしまっている部分を一度大半取り払って自分と向き合いたかったから髪を黒くしてバッサリと切った。赤ちゃんぶりの短さ。で、耳の横は刈りあげた。(本当は坊主にしたかったけど大目立ちするほどだとまた目的主旨がずれてしまうので一部分の2ミリ刈り上げ程度にしておいた。)

見た目だけと言えど、心まで丸裸になっているようで色々なことを見つめ直せた凄くいい機会になった。ファッションについても見つめ直せた。だから今は前よりもずっとファッションを楽しめてるし、これからファッション表現をしていくにあたってもっと勉強していきたいとも思う。

そして自分は恵まれてるか否か?
わたしが思うに、わたしは自分がやりたいことを叶えるという点ではある程度恵まれてると思う。というかそもそもそれはあらゆることを想定して決めた方向性であって、けど頭で考えて決めたというよりもっとナチュラルな流れ。言うならば宿命だと思ってる。大きな采配による、意志。

10代の大半は本当に苦しい時を過ごした。傷やトラウマさえあれど、でも今はそれがあったからこその恵みをいっぱい受けている。これからのことは誰にもわからない。

わたしは世界中の喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、習慣、文化、価値観、考え方、沢山知りたい。世界視野で物事や人を捉えられるようになりたい。

何故世界を基準に置いて考えるのか。この世にあるたくさんの事実を知る事は、自分というのがどういう者で何のために生かされているのかを知るために、幸せになるために、またわたしがずっと望んでいることである「人を良い方向に導くこと」のために凄く大事なことだから。良い方向って一体何なのか、ちゃんとわかりたい。

今の時点で言えるのは、自分と他人を比べて嫉妬したり悲観したりしてたらきりがないことくらい大人になれば何処かでわかっているのにそうしてしまうヒトたちが幸せになるために周りができることとしては、間違っていると指摘して説得することじゃなくて、その人たちに与えられた素晴らしい賜物を見つけてあげること、ただ愛すること、愛し合うことが一番だと思う。月並みな言い方かもだけど本当に思う。

でも人によって愛の表現や感じ方は少しずつ違うからこそ異人種(国が違うという意味だけでなく)の価値観考え方も理解出来る心の持ち主になりたい。神様のように全知全能は無理でも、自分がなれる限りの器になりたい。

愛が足りないとき、自分が自分であることによって得たものをないがしろにするように、自分が自分にあることによって得られなかったものばかりに着目してしまう人間の癖。わたしにもやっぱり時たまあって、だけどその度それは「傲慢な考えだな」と思うし、それはやっぱり愛が足りてない時だ。

十人十色と言うようにそれぞれ持っている要素は当然平等じゃない。だからこそ面白く、だからこそ世界が成り立ち、だからこそ生きてる意味を考える、何かに向かって生き続ける。

もしわたしがわたしで無ければ今居る友人たちはわたしの周りに居ただろうか、夢は?知恵は?今ある忍耐力やタフさは?あのときの笑顔は?と。

自分の何かや今を否定するたびに自分の今まで出逢った、築いた、大切なものを否定してることは忘れたくない。

広い視野で世界を、自分を、他人を見たい。肯定的に生きたい。

愛に溢れた人間、人々に奉仕する心を持った人間で在り続けたい。それがわたしにとって一番大事な事。

仕事や自分自身の状況がどうなったとしても、それは揺るぎなく持ち続けたい。それがわたしの生きる意味だ。特には、いわゆる弱者、虐げられて世の中的には見向きもされないような達人の味方で居たいし、優しく居続けられる人間で在りたい。

そんな希望を持ってわたしは世界を舞台に人々に平穏と光をもたらす人間として生きていきたい。
決心が出来てる。幼き自分の頃から進化し続けた揺るぎない想い。

そのためには沢山の努力と忍耐が必要で きっと苦労も並大抵のレベルじゃないだろうし沢山泣く思うけど、やるんだよわたしは。だって他に誰がわたし役やるの?って感じ。

わたしはわたししか出来ないんだから。わたしの可能性はわたしがわかってあげて社会の為に使わなきゃ。

まだまだ成長段階で、無知。未知。自分自身のことも実際半分わかってるかわかってないかくらいで、この世の仕組みなんてもっとわかんない。だからどんどん吸収して成長して真理を見つめ続けて学んで、自分を最大限に活かした生き方で社会貢献していきたい。愛を持ち、清く、正々堂々と生きたい。

そしてその中で素晴らしい人たちや出来事にいっぱいいっぱい出逢っていくんだろうと思う。それがすっごい楽しみ。それがわたしらしい生き方。こういう生き方しか考えられないし、出来ない。

共感してくれる人は是非力を合わせましょう。一緒に良い未来にしていきましょう。
わたしはこのまま真っ直ぐ進めばいいだけだ。

受講してたイノベーションスクールの広告に〜!@ウィーン

 昨年ウィーンで実際に受講していたイノベーションスクールの広告モデルをしました。 ドライブ中あちこちに見かける・・・笑 パンフレットとウェブサイト上にもちゃっかりと。