2015年3月7日土曜日

結局人を愛し赦すことでしか人は本当の意味では満たされないのだと感じること について


どんなにその人が器用な人だとしても、ある程度一緒に居ればわかる。愛想笑い、ウソ、皮肉、コトバの裏に隠した本音。きっとわたしのことも言ってるんだろうとか、そういうのも大方間違ってはいないだろうと思う。

わたしはそういうとき極力角を立てたくなくて気付かないフリを心がけるけど、その”上辺”より”水面下”に気が行き過ぎて会話が出来なくなってしまうことが多い。だから「ヘタクソだよね」と言われる。ほんとそう。

こんなこと書いてどうしたいのかわからないけどただ兎に角今は、明日生きてるかわからないと思うと今溢れることを記しておきたい気持ち。生きてた証拠、思考してた証拠を。

”世渡り上手”な人たちは単純にスゴイなと思う。そういう賢さをわたしは持ち合わせてないし、不器用だから。でも自分もそうなりたいとは思わない。

だいたいいつも少数派のほう、だから生き易くはない。このブログは”こんな人もいる。”と言う目線で見て頂けたらと思う。独自の意見であれば批判は大いにあると思うけど、もし共感してくれる人、救われる人がいるなら凄く嬉しいな。

わたしは自分を偽ってまで得たいものが無い。但しそれ故に防げたかもしれない摩擦や勘違いが起きることもあるから良心的な”器用さ”であれば身につけたいと思うんだけど、それは勉強中。

最近は軽い世間話にすら違和感を感じる。そもそも「浮気はどこまでオッケーか」とかそんな問題提起が起きること自体がどうかしてると思う。それが一般的な世の中の”通常営業”なんてそれをスタンダードにして生きるなんてわたしは「一ヌケピ!」だ。「あいつは使える」「使えない」なんてねいっくら仕事だからって人を心のある”人”じゃないような言い方ってどうかと思うしね。

”みんなそうだから””昔の人もそうだったから”とかよく聞くけど、だから自分もそれで良いという意識。その人自身のオリジナリティを感じられる言葉で返ってこないことが多い。一体誰と話してるのかわからなくなる。何の為にコミュニケーションを取ってるのかもわからなくなる。

それに色んな世代の人たちがこの世に生きてる宿命かのように言うコトバだけど、最近は特に同年代くらいの人たちが社会に入ってまた同じように「世の中そんなもんだ」「器用にやっとけば」「バカにはああ言っとけばいい」等と言い始めてることに危機感を感じる。現実を見越し”気にしてもしょうがない””場に応じて”という割り切りは必要だけど、その中に愛が欠落していっているようなイメージ。

ほとんどの場合が青年時代の大人たちへの違和感が麻痺して 諦めて 結局自分も同じ道を辿ろうとするニュアンス。悲しい。

長い物に巻かれた方がラクだもんね。変えてゆくなんて自分にそんな力ないって思うよね。信じられないと思う様なこといっぱいあるもんね。でも、「でも!」をわたしは死ぬ迄忘れたく無い。

不純から純な結果は生まれようが無い。不純にさせた原因は周りだとしても、不純に染まる最終決断をしたのは自分。
そうすると何してもどうしたって満たされないスパイラルにハマる。遊びやアルコール、「人の不幸は蜜の味」思考、他人に肯定されること 等で”今”を満たしても平安が無い。それは苦々しい根があるから。

そんなわけで結局人を愛し赦すことでしか人は本当の意味で満たされないのだと思う。
どんなコトが自分の身の周りに起きたとしても、それを負の細胞に変えない。罪を憎んで人を愛する”努力”。心を見張って正しい考えにチェンジすることが重要で、”自由”とはそこから始まり、”幸せ”とは感情や欲望を晴らすことでなく心を制した上にあるものだとわたしは思う。

事実、それを心がけてる今、しあわせで 持続性があるからだ。そんな友人たちがみんな心からの笑顔だからだ。極力自分の口から汚いコトバを発したく無い。人のためにも自分のためにも。発したコトバがそのまま目の前に道を創っていくから。「赦します愛します」と呟くとそれが整備されていくのがわかるから。春の小川のように澄み渡っていく。

受講してたイノベーションスクールの広告に〜!@ウィーン

 昨年ウィーンで実際に受講していたイノベーションスクールの広告モデルをしました。 ドライブ中あちこちに見かける・・・笑 パンフレットとウェブサイト上にもちゃっかりと。